2014/11/28

徳田球一 chapter three epilogue

自分のルーツを知りたくなり、三人の興味深い存在を知ることになった最後の一人が母方の奥山八郎おじさんタネ夫人の甥、『日本の歴史から消えた(消された)男、徳田球一』でした。八郎おじさんと同じく弁護士の道を歩むのですが、1921年ソ連に渡り、レーニン・スターリンと接触して、非合法に日本共産党を立ち上げるが治安維持法違反で逮捕されそれがきっかけで三・一五事件が勃発します。徳田球一はそのまま府中刑務所に18年もの間過ごすことになったのです。そして終戦を迎え、奥山八郎おじさんが東京裁判の弁護をしている同じ1945年に、母方の徳田球一はフランス人ジャーナリストのロベール•ギランによって発見され出獄し、父方の祖父玉利幸盛は徳田球一の理想郷であったソビエト連邦の捕虜になっていたのです。(シベリア抑留)まさに、父方の祖父玉利幸盛と母方の徳田球一の立場は近くて遥か遠くなった大陸を超え悲劇的に入れ替わったのです。その後、徳田球一は中国から帰国した野坂参三と日本共産党を再建して、書記長に就任します。(今回、思想・政治からの観点は話しの筋が、逸れるので、一切触れない。)その後、父方の祖父玉利幸盛らが『シベリア抑留』から帰国が遅れたのは、中国•ソビエト連邦とつながりがある徳田球一に原因があると(抑留中の日本人で共産主義者でないものは帰国させるなと要請した疑惑 : 徳田要請問題。)GHQに告発されます。この事件で日本共産党内部は分裂し、徳田球一に逮捕状が出ます。(レッドパージ : red purgeその後、徳之島に帰り一時身柄を匿ってもらいます。その時匿った人物こそが奥山八郎おじさんだったのです。その後、毛沢東に助けられ(政治的意味の)中国に亡命します。そして二度と日本に戻ることなく1953年北京で病死します。(北京で行なわれた追悼大会では3万人が参列したといわれるが、プロパガンダであると個人的には思う。)
たらればだが、1921年に徳田球一がソ連に渡っていなければ、府中刑務所に18年もの間過ごすこともなく、それは父方の祖父玉利幸盛の人生を左右しかねない日本に於ける一つの事件であり、奥山八郎おじさんが弁護した東京裁判でのソビエト連邦の駆け引き・情報の面で、すくなからず影響があったのではないかと思う。それは、その後、僕の父と母が結ばれることになったことであり、それは、ただの運命ではなく宿命だったと。(人間は戦争というハニカム構造で奥深く闇深く繋がっている。)
そして僕自身も奥深く闇深く繋がることになるのです。徳田球一が死去した50年後の2003年。オックスフォード大学を卒業する前のなにやら難しい研修で日本に来た子と知り合いになり、当時イギリス領地であった香港生まれ。)偶然にも日本共産党と共同通信社で実習をしていて、(ジャーナリストになる夢を持っていた)三人の話しをしたら、その一人徳田球一の墓が18年もの間過ごすことになった府中刑務所の同市東京都府中市多磨霊園にあると調べてくれたのです。
そして僕ら二人は、さっそく休日に多磨霊園に行く約束をします。多磨霊園というのは、行ったことがある人ならわかると思いますが、歩いて調べるにはとても広い土地の為、お供えの花を買う時、花屋さんに『徳田球一のお墓はわかりますか?』と聞くと首をかしげ、かわりに多磨霊園の地図を貰い僕らは一度、喫茶店で休息をしてコーヒーを飲みながら地図と睨めっこしながら、現在地と目的の場所にボールペンでマークをつけその点と点を結びつけ再度、歩くことにしました。
やっとの思いで辿り着くと、その墓は日本人では数少ない革命家であった人とは思えないほど小さく、供養にくる人は年間何人いるんだろう?と思うほど雑草が茂っており、僕らはまずは、、。掃除をせざるを得ませんでした。その墓は珍しく郵便箱が設けられており、僕らは無言で一通り掃除を済ますと思いを巡らせ、(香港で産まれたイギリス人・北京で死去した徳田球一・日本・中国・ソビエト連邦に翻弄された玉利幸盛・東京裁判の弁護団だった奥山八郎)その郵便箱にメッセージを添えまた無言で投函しました。それは巡り合わせというより強い何かに引き寄せられてここにたどり着いた感覚に近かったと思います。そして激動の時代を生きた祖先に深く頭を下げその場を後にしようと、僕らがその場を振り返るとそこには徳田球一の墓の数倍は大きい墓がそびえ立つように佇んでいたのです。『山本五十六』の文字が刻まれ‥。
僕はその後、鹿児島に帰り小さいながらも会社を立ち上げることになります。それは戦後、徳之島から鹿児島本土に来た母方の祖父奥山豊盛が立てたビルであり、奥山八郎・玉利幸盛が寝泊まりした場所でした。
歴史を知ることは我を知ること。自分自身もっと誇りを持って生きるべきだと。

徳田球一の墓