2014/11/13

玉利幸盛 chapter two

母方の奥山八郎おじさんが東京裁判で日本人の弁護をしていた1946年〜1948年、まだ、日本人の戦争は終わってなかった。いや、むしろ始まりに過ぎなかった人物がいます。それが、父方の祖父玉利幸盛でした。満州がほぼ破滅的になった状態で、最前戦アムール川(現 : ロシア・中国の国境)で、スターリン率いるソビエト連邦と(戦う相手がすり変わり)戦っていたのです。距離にしてまさに目と鼻の先の睨み合いでした。今から10年前、父親が反戦と平和へのイベントを行った際に地元ラジオ局が祖父の取材に来る機会があり、その時代の詳細を聞くことになりました。
話しを聞くうちに戦争は人間を狂わせるには充分すぎる程条件が揃っており、悲惨で残酷でしかない出来事に約70分のインタビューは瞬く間に終わりました。その内容はまともな人間であるのであれば、とても救いようのない、励ます言葉すら安易にできるはずがない歴史であったのです。祖父は取材の人に対して、『わたしが、お話しできるのはここまです。私の人生はもう長くはないでしょう。戦死した方々の事を想うとむしろ生き過ぎたと思っております。この先の話しは生死を共にし戦死した、戦友と当時現地で呑んでいた紹興酒を吞みながら語り、逢いたい。』と話し取材を締め括りました。ご承知の通り、祖国はポツダム宣言があり、玉音放送が流れ、日本人は失意のどん底に落ちていました。しかし一方では軍国主義から解放され民主主義の新しい時代が到来し、良くも悪くも空襲のない平和の時代が、訪れようとしていたのです。敗戦によって、一旦は民間人は解放されたのです。
その間祖父は、ソビエト連邦の捕虜になります。親しかった中国人はソビエト連邦のスパイであり、(1945年 : 毛沢東は6月19日中国共産党の最高職である中央委員会主席に就任した。)日本人とばれぬよう、祖父は中国語で話していたが、日本人である情報は当然筒抜けであり(もちろん、日本国は満州国を作り、大東亜帝国を作る意思の元戦争に突き進んでいた中で、日本人は確かにその時代中国人に対する差別は実在したと自分は言いきっていいと思います。)同じ共産主義国家であるスターリン・毛沢東が繋がっているのは火を見るより明らかであり、戦争とはそういうものだと思う。)あの有名な『シベリア抑留』に遭うのです。もちろん抑留とは名ばかりで、完全な奴隷として扱われ、過酷な寒さ、労働条件の中、どのようにしたら生き延びられるか?日本国はいつ祖国に連れ戻してくれるか?それだけを希望に強制労働を耐え抜くしか術はなかったのです。祖国は、日本国憲法が新たに制定され、憲法第9条が制定されているにもかかわらずです。
一方、朝鮮は北緯38℃線で引き裂かれ(イムジン河)冷戦が始まり、いわば、祖父たちは『忘れられた、意思ある命』という存在であったのです。まだ21歳の青年に…。時代に流され、従う以外選択肢はなく…。この処遇である。青春を謳歌したかったであろう。恋をしたかったであろう。
その後、祖父は1948年26歳で舞鶴(京都)へまさに奇跡的に帰国します。現在92歳になった今でも孫である自分が戦争の話しを聞くと当時の話しを今の若者とまったく変わらない、眼差しで、懐かしむように話します。自分はその度に祖父にとってどんな環境下にあろうが、祖父にとっての青春はあったのではないかとその眼差しを見る度に思えて仕方ないのです。
(戦争は理屈ではなく、屁理屈な人間の産物なので、一切肯定しないですが。)

そして最後の一人(母方の祖先)の登場で、三人の運命が急激に引き寄せらることを知ることになります。彼は、レーニン・スターリン・毛沢東とつながっていた数少ない日本人だったのです。(彼がいなければ祖父は日本にもっと早く帰れたんじゃないかと思う。)この三人がいなければ、自分もこの世には産まれてなかった事になります。最後の一人はまた次回書こうと思います。