2014/12/31

2014.ありがとうございました。

2014.たくさんの方々に助けられました。2015もよろしくお願いいたします。
『建設的アウトキャスト』



2014/12/09

『無能の人』つげ義春 : 1985

『ねじ式』が一般的には有名なつげ 義春の漫画。(大好きです。)『無能の人』は竹中直人さんの初監督作品となっています。主人公の助作と自分の人生をダブらせて観てしまいます。そもそも、人間に必要なものってなんなのか?人間の生きる為に必要なこと以外、いわいる娯楽のジャンルに入る現代の仕事って元々は換金などなく、きっと楽しんだりする為だけの知恵であったはずで、デザインの仕事でお金をもらうってことは、そもそも、石を売る男となんら変わりはないのかなと。










2014/12/02

両手いっぱいの言葉 / 寺山修司

「ふるさと」などは、所詮は家出少年の定期入れの中の一枚の風景写真に過ぎないのさ。それは、絶えず飢餓の想像力によって補完されているからこそ、充ち足りた緑色をしているのだ。

同じ鳥でも飛ばないとりはなあんだ?
それはひとり   という鳥だ

2014/11/28

徳田球一 chapter three epilogue

自分のルーツを知りたくなり、三人の興味深い存在を知ることになった最後の一人が母方の奥山八郎おじさんタネ夫人の甥、『日本の歴史から消えた(消された)男、徳田球一』でした。八郎おじさんと同じく弁護士の道を歩むのですが、1921年ソ連に渡り、レーニン・スターリンと接触して、非合法に日本共産党を立ち上げるが治安維持法違反で逮捕されそれがきっかけで三・一五事件が勃発します。徳田球一はそのまま府中刑務所に18年もの間過ごすことになったのです。そして終戦を迎え、奥山八郎おじさんが東京裁判の弁護をしている同じ1945年に、母方の徳田球一はフランス人ジャーナリストのロベール•ギランによって発見され出獄し、父方の祖父玉利幸盛は徳田球一の理想郷であったソビエト連邦の捕虜になっていたのです。(シベリア抑留)まさに、父方の祖父玉利幸盛と母方の徳田球一の立場は近くて遥か遠くなった大陸を超え悲劇的に入れ替わったのです。その後、徳田球一は中国から帰国した野坂参三と日本共産党を再建して、書記長に就任します。(今回、思想・政治からの観点は話しの筋が、逸れるので、一切触れない。)その後、父方の祖父玉利幸盛らが『シベリア抑留』から帰国が遅れたのは、中国•ソビエト連邦とつながりがある徳田球一に原因があると(抑留中の日本人で共産主義者でないものは帰国させるなと要請した疑惑 : 徳田要請問題。)GHQに告発されます。この事件で日本共産党内部は分裂し、徳田球一に逮捕状が出ます。(レッドパージ : red purgeその後、徳之島に帰り一時身柄を匿ってもらいます。その時匿った人物こそが奥山八郎おじさんだったのです。その後、毛沢東に助けられ(政治的意味の)中国に亡命します。そして二度と日本に戻ることなく1953年北京で病死します。(北京で行なわれた追悼大会では3万人が参列したといわれるが、プロパガンダであると個人的には思う。)
たらればだが、1921年に徳田球一がソ連に渡っていなければ、府中刑務所に18年もの間過ごすこともなく、それは父方の祖父玉利幸盛の人生を左右しかねない日本に於ける一つの事件であり、奥山八郎おじさんが弁護した東京裁判でのソビエト連邦の駆け引き・情報の面で、すくなからず影響があったのではないかと思う。それは、その後、僕の父と母が結ばれることになったことであり、それは、ただの運命ではなく宿命だったと。(人間は戦争というハニカム構造で奥深く闇深く繋がっている。)
そして僕自身も奥深く闇深く繋がることになるのです。徳田球一が死去した50年後の2003年。オックスフォード大学を卒業する前のなにやら難しい研修で日本に来た子と知り合いになり、当時イギリス領地であった香港生まれ。)偶然にも日本共産党と共同通信社で実習をしていて、(ジャーナリストになる夢を持っていた)三人の話しをしたら、その一人徳田球一の墓が18年もの間過ごすことになった府中刑務所の同市東京都府中市多磨霊園にあると調べてくれたのです。
そして僕ら二人は、さっそく休日に多磨霊園に行く約束をします。多磨霊園というのは、行ったことがある人ならわかると思いますが、歩いて調べるにはとても広い土地の為、お供えの花を買う時、花屋さんに『徳田球一のお墓はわかりますか?』と聞くと首をかしげ、かわりに多磨霊園の地図を貰い僕らは一度、喫茶店で休息をしてコーヒーを飲みながら地図と睨めっこしながら、現在地と目的の場所にボールペンでマークをつけその点と点を結びつけ再度、歩くことにしました。
やっとの思いで辿り着くと、その墓は日本人では数少ない革命家であった人とは思えないほど小さく、供養にくる人は年間何人いるんだろう?と思うほど雑草が茂っており、僕らはまずは、、。掃除をせざるを得ませんでした。その墓は珍しく郵便箱が設けられており、僕らは無言で一通り掃除を済ますと思いを巡らせ、(香港で産まれたイギリス人・北京で死去した徳田球一・日本・中国・ソビエト連邦に翻弄された玉利幸盛・東京裁判の弁護団だった奥山八郎)その郵便箱にメッセージを添えまた無言で投函しました。それは巡り合わせというより強い何かに引き寄せられてここにたどり着いた感覚に近かったと思います。そして激動の時代を生きた祖先に深く頭を下げその場を後にしようと、僕らがその場を振り返るとそこには徳田球一の墓の数倍は大きい墓がそびえ立つように佇んでいたのです。『山本五十六』の文字が刻まれ‥。
僕はその後、鹿児島に帰り小さいながらも会社を立ち上げることになります。それは戦後、徳之島から鹿児島本土に来た母方の祖父奥山豊盛が立てたビルであり、奥山八郎・玉利幸盛が寝泊まりした場所でした。
歴史を知ることは我を知ること。自分自身もっと誇りを持って生きるべきだと。

徳田球一の墓











2014/11/13

玉利幸盛 chapter two

母方の奥山八郎おじさんが東京裁判で日本人の弁護をしていた1946年〜1948年、まだ、日本人の戦争は終わってなかった。いや、むしろ始まりに過ぎなかった人物がいます。それが、父方の祖父玉利幸盛でした。満州がほぼ破滅的になった状態で、最前戦アムール川(現 : ロシア・中国の国境)で、スターリン率いるソビエト連邦と(戦う相手がすり変わり)戦っていたのです。距離にしてまさに目と鼻の先の睨み合いでした。今から10年前、父親が反戦と平和へのイベントを行った際に地元ラジオ局が祖父の取材に来る機会があり、その時代の詳細を聞くことになりました。
話しを聞くうちに戦争は人間を狂わせるには充分すぎる程条件が揃っており、悲惨で残酷でしかない出来事に約70分のインタビューは瞬く間に終わりました。その内容はまともな人間であるのであれば、とても救いようのない、励ます言葉すら安易にできるはずがない歴史であったのです。祖父は取材の人に対して、『わたしが、お話しできるのはここまです。私の人生はもう長くはないでしょう。戦死した方々の事を想うとむしろ生き過ぎたと思っております。この先の話しは生死を共にし戦死した、戦友と当時現地で呑んでいた紹興酒を吞みながら語り、逢いたい。』と話し取材を締め括りました。ご承知の通り、祖国はポツダム宣言があり、玉音放送が流れ、日本人は失意のどん底に落ちていました。しかし一方では軍国主義から解放され民主主義の新しい時代が到来し、良くも悪くも空襲のない平和の時代が、訪れようとしていたのです。敗戦によって、一旦は民間人は解放されたのです。
その間祖父は、ソビエト連邦の捕虜になります。親しかった中国人はソビエト連邦のスパイであり、(1945年 : 毛沢東は6月19日中国共産党の最高職である中央委員会主席に就任した。)日本人とばれぬよう、祖父は中国語で話していたが、日本人である情報は当然筒抜けであり(もちろん、日本国は満州国を作り、大東亜帝国を作る意思の元戦争に突き進んでいた中で、日本人は確かにその時代中国人に対する差別は実在したと自分は言いきっていいと思います。)同じ共産主義国家であるスターリン・毛沢東が繋がっているのは火を見るより明らかであり、戦争とはそういうものだと思う。)あの有名な『シベリア抑留』に遭うのです。もちろん抑留とは名ばかりで、完全な奴隷として扱われ、過酷な寒さ、労働条件の中、どのようにしたら生き延びられるか?日本国はいつ祖国に連れ戻してくれるか?それだけを希望に強制労働を耐え抜くしか術はなかったのです。祖国は、日本国憲法が新たに制定され、憲法第9条が制定されているにもかかわらずです。
一方、朝鮮は北緯38℃線で引き裂かれ(イムジン河)冷戦が始まり、いわば、祖父たちは『忘れられた、意思ある命』という存在であったのです。まだ21歳の青年に…。時代に流され、従う以外選択肢はなく…。この処遇である。青春を謳歌したかったであろう。恋をしたかったであろう。
その後、祖父は1948年26歳で舞鶴(京都)へまさに奇跡的に帰国します。現在92歳になった今でも孫である自分が戦争の話しを聞くと当時の話しを今の若者とまったく変わらない、眼差しで、懐かしむように話します。自分はその度に祖父にとってどんな環境下にあろうが、祖父にとっての青春はあったのではないかとその眼差しを見る度に思えて仕方ないのです。
(戦争は理屈ではなく、屁理屈な人間の産物なので、一切肯定しないですが。)

そして最後の一人(母方の祖先)の登場で、三人の運命が急激に引き寄せらることを知ることになります。彼は、レーニン・スターリン・毛沢東とつながっていた数少ない日本人だったのです。(彼がいなければ祖父は日本にもっと早く帰れたんじゃないかと思う。)この三人がいなければ、自分もこの世には産まれてなかった事になります。最後の一人はまた次回書こうと思います。





2014/11/07

『龍三と七人の子分たち』北野武

いよいよ、北野武監督新作出ますね。『龍三と七人の子分たち』北野作品初出演となる藤竜也さん。久しぶりのコメディー映画。東京のデザイン会社で働いていた最後の時に、DVD作ったりHMVでイベントしたり、秋葉原でVJ頼まれたりしていた川野直樹くんが出演します。
あの時は大変な時期だったのですが、頑張ったんですね。すごい!!是非、スクリーンで観ます。



2014/11/06

『Tango』 Zbigniew Rybczyński : 1980

ミュージックビデオの巨匠。無数のレイヤーでアルゴリズムに基づいて作られた芸術映像。最初観たときの衝撃は忘れられません。既成概念を覆すこの世界観は唯一無二であり、1982年にポーランドから政治亡命した決断にも敬意をはらいます。こちらのネタもVJの時によく使わせてもらっていました。日本人ではオノヨーコ「HELL IN PARADISE」/伊藤たけし「COWBELL」のPVを手がけています。








2014/11/05

『Crash』 David Cronenberg : 1996


子どもの時に観て衝撃的だった『ザ•フライ』(ラストシーンは今思い出すだけでも涙。)でも有名なデヴィッド・クローネンバーグ。今まで観た中で一番といっても過言ではないほど猟奇的な映画。交通事故で快楽を覚えてしまう人たちを描いています。





2014/10/31

奥山八郎 : chapter one

誰しも、自分のルーツを知りたくなる時期がくる。。自分も東京とコロラド/デンバー(アメリカ)に住んでいた時期、色んな人種・国籍・各都道府県の人たちとコミュニケートしていくうちに、自分の存在意義・なんで、産まれてきたのかと?めんどくさいことを考える年齢だったので関心を持つようになり、父親に尋ねてみると、三人の興味深い存在を知ることになった。(この三人は、いずれ歴史の流れでつながることになる。)二人は母親方で、その一人が奥山八郎おじさんであった。反権力哲学貫徹の弁護士と言われ、(私の祖先は海賊だよ。という逸話話がある。)五一五事件、神兵隊事件、東大教授グループ事件の弁護をしている。自分の母親は徳之島の産まれで、当時、沖縄と同様まだ、アメリカの領地で貨幣もドルの時代。
誰もが知るとおり、日本は戦争に負け、米・英・仏・ソ(ソ連に関しは、納得いかない人も多いのでは?)を相手にかの有名な『東京裁判』が行われる。もちろん幕末然り戦争というのは、(解放運動はまた別のベクトルを含みますが、)百害あって一利なしで勝てば官軍負ければ賊軍。この一方的な裁判では、アメリカは民主主義という建前上。国際法に基づき、日本人の弁護団を採用します。(ただし、当時の日本がもし勝っていたら裁判すらしなかったと個人的には思います。国際連盟を脱退したのが、日本のそもそもの過ちである。)その数少ない日本人の弁護団の一人が、母親の祖先の奥山八郎おじさんだったのです。調べていくうちにわかったのですが、八郎おじさんが弁護したのは、東条英機の後に行われた、永野修身(裁判中に巣鴨プリズンにて病死)橋本欣五郎(通称:ハシキン。今でいう右翼活動家。先ほど、書いた3人がその後不思議な縁でつながる興味深いところである。)はA級戦犯だったのだが、なんとか終身刑に持ち込む。
その後、初代日本弁護士連合会の会長に就任し、谷崎潤一郎氏の相続の相談を受けています。後日母親に電話して聞くと、よく父親に連れられて当時、銀座にあった事務所に行った記憶があると言っていました。(家は大森)(当時、銀座にオリンピックというビルがあって(現 : ティファニー銀座本店)ビーフシチューを生まれて初めて食べ高カロリーなものがない時代だったので具合が悪くなった記憶があると言っていた。)歴史を知ることは我を知ること。自分自身もっと誇りを持って生きるべきだと。後の二人との不思議な接点は、次回、書きたいと思います。


オリンピックビル(現 : ティファニー銀座本店)




2014/10/30

『Mulholland Drive』 David Lynch : 2001


当時、二人でユニットを組んでいて、自主映画を撮り始めた時期に銀座まで行ってこの映画を観た。 そして奇才デヴィッド・リンチの世界をまざまざと見せつけられた。映画サンセット大通り』のオマージュなのですが、とてもじゃないけど一回観ただけでは理解出来ない。とにかく謎だらけ。そして、ただただ自信をなくして二人でとぼとぼ帰った映画です。それから3回観るはめになった。余談ですが、後半部に劇場で歌うシーンが、北野武監督の映画『TAKESHIS’』(この映画で北野武監督はすべてを出し尽くしたと当時思った。)で美輪明宏がヨイトマケを劇中で歌うシーンと似てるなと。また『菊次郎の夏』では北野武監督自身が好きだというキューブリックの最高峰『2001年宇宙の旅』で骨を投げるシーンのオマージュカットがある。(寅さんのオマージュ映画でもあると思う。)是非、まだ観たことがない人におすすめです。






2014/10/28

『パンク、ハリウッドを行く』チャールズ・ブコウスキー : 1989 / Hollywood

男の中の男、寅さんを地でいく生き方。(寅さんよりたちが悪い。パンクですね。)
『ブコウスキー:オールドパンク』: 2002 / ドキュメンタリーでは、本人も出てきて、この本を読む前に観てもいいかも。こんな破天荒な生き方憧れます。
実際には、本人が言うほど女性にはそんなにモテなかったとも云われています。

そこがまたかわいい一面ですね。

『パンク、ハリウッドを行く』



『ブコウスキー:オールドパンク』



2014/10/27

『未来は今』 コーエン兄弟 : 1994 / US


20代の頃友人に勧められて観た映画。コーエン兄弟は個人的に当たり外れがありますが、とりあえず、、この映画には希望があります。今の日本の子ども達に是非観てもらいたいので、学校で流して欲しい映画のひとつです。




2014/10/25

『あの夏、いちばん静かな海。』北野武 / 1991

今から10年前、ひょんな出会いでこれまで自分とは皆無無縁だったオックスフォード大学を卒業する前のなにやら難しい研修で日本に来た子と知り合いになった。(その子は日本をとても気に入り、卒業式で一旦イギリスに帰り、そのまま約2年間日本で住むことになる。)

その子はアジア文化を専攻した(主に中国。当時イギリス領地であった香港で生まれたのがルーツだと言っていた。)授業で「日本について最初に観せられたのがこの映画です。」と僕に言った。その教授の意図は学のない自分でもすぐにわかった。この映画は質の高い無声映画であり、日本語が聴き取れなくても: 聴き取れない方が、日本人の文化・民俗学が理解出来るからだと…。(多分…。)素晴らしい教授が世界には存在する。




2014/10/24

羅生門

言わずと知れた芥川龍之介の名作、心に突き刺さります。ちょっと子どもに聞かせたら怖いですね。短編で一緒に入っている『鼻』も実におもしろく、『今昔物語』を題材にしていて、神話に登場するサルタヒコがモデルになっていると想像する。その後手塚治虫の『火の鳥』でもやはり鼻の大きい猿田博士が登場する。是非、読みやすいのでおすすめです。




2014/10/23

Powers of Ten

誰もが知る家具デザイナー チャールズ•イームズ夫妻が監督•脚本した教育映画。僕が生まれる前に発表されています。
VJをする時必ず流してた。そしてGoogle Mapsをとっくの昔に作っている。ビジュアルの面でも近い将来ここまで具現化出来る日はそう遠くはない。才能ある人は何をしても素晴らしい。









Michel Gondry Massive Attack / Protection

今から約20年前。素晴らしい作品は色あせないですね。






2014/10/21

いきなりダイヤモンド

これぞ、天才松本人志!裏のメッセージも含めすべてがつまっている。今まで作った映画より、もっとも松本映画であり、単館で上映したら影響ありそう





2014/10/16

万延元年のフットボール 大江健三郎

今まで読んだ中で一番の難書です。
現代語版出たら売れそう。






2014/10/15

the humangeographic

弊社の社名は造語のhumangeographicなのですが、the humangeographicという会社が立ち上がっていました。ZINEを発行してドキュメンタリー映像を配信している会社で自分が目指していることをさっそく実現している、素晴らしい会社なので勝手に目標にしたいと!知り合いでもないのに…。ひとつ気になるのが、もしかしてドメインの関係でtheをつけたのなら申し訳ないという気持ち反面、海外の会社と勝手に繋がった気持ちにもなり、うれしいです。まったく知り合いでもないのに…。






Vanishing Point /1971

この映画の影響は未だに大きいです。例えばまっすぐな線が二つあったとする。
繋がるはずのないふたつの線は、人間の眼には長い距離を要すると繋がったかのように見える、そのポイントを意味している。作られたのが1971年。アメリカでは1969年が終わりどこか空虚感漂う時代に作られた映画。日本でも安保闘争が終焉を迎え、授業をボイコットしていた学生がまた教室に戻り同じような空虚感が漂っている時代。